あれから1年 |
すみません。。。私かなり寒がり・・・お天気いいけど、メチャ寒のフィレンツェです。。
さて!昨年の今頃・・・私はこの景色を泣きながら見てた・・・
そうです。。フィレンツェの中心地にある病院からです。
私は、この病室からDuomoのてっぺんを見つめていました。。
どうしてこんなことになったのかと何度も自分に問いかけながら・・・・・
時の経つのは本当に早いですね。。。あの辛い毎日も忘れるかのように毎日が過ぎてゆく。
皆さんに闘病生活のご報告をする余裕もなく、こうして1年が過ぎやっと語れる感じです。
これも・・・自分の中では人生の大切な一ページとしてプログに綴っておこうと思います。
今は元気なのでご心配なく(笑””)
昨年の2月12日のことでした・・・体調が悪いと感じていたのですが、そこまで気にすることも
なく、毎日を過ごしていました。主人は仕事が早く終わったと迎えに来てくれました。
主人『どうする??救急病院で検査してもらう??』
M『なんか大袈裟よね!?でも体心配・・・』などと車の中で会話をしながら・・・
やっぱり行こう!!となりフィレンツェの中心にある病院へ到着したのが20時
待たされること・・・・3時間!!!血液検査や心電図などをしてもらいました。
私の症状は...体が浮腫む(尿がでない)そして、心臓がバクバクする・・・
午前0時を迎えるころ、救急病院の先生は今日一日ここに残ったほうがいいと・・・
なんとキャッシャーを置かれたところは廊下・・部屋は満室・・
と・・私は病院の廊下で次の日の朝を迎えた
短期病棟のベットが空いたとのことで翌朝から病室へ
この時点では病名ははっきりしないが血液中のビタミン不足とやらで点滴を受けた・・
2日間のショート滞在の後(尿もすっきり出て、浮腫みもとれ)自宅へ戻った
病院からは数日、デイホスピタルに来て点滴を受けるようにと言われた。
翌日、バスに乗って病院へ行った。先生にまだなにか体の不調がありますか?
と聞かれ...『この心臓のバクバクが気になるんですが・・・』と告げると
この先生は、早速心臓科の先生に連絡をしてくれて、エコーを取ることに
ここから事態が大きく急変してしまったのです。。
エコーをとってくれたのは女医さんでした。『すぐに終わるからね』と胸にジェルを塗り
クルクルと機械を心臓の上で転がしていた・・・・
と・・・・その数秒後・・・・『心臓弁に異常があるけどこれはいつから??』
M 『えっ!!なんですか??心臓弁??なにそれ??』
イタリア語で心臓弁はValvola(ヴァルヴォラ)と言いますが、この時に
私がこの言葉を知っていたか??勿論NO!!!
彼女は数名の医師を呼び・・・私は4-5人のイタリア人医師に囲まれ
何??どうした??心臓の何がどうなった??もうパニック状態・・・・
只、この先生達の顔つきから大変なことになっているんだと病室の空気から感じた。
女医さんから、『ここに家族はいるの??』と
私は、主人に電話をしすぐに病院に来るようにお願いした。。
その後、女医さんは・・・『とにかく貴方は家に帰ることはできません。はっきりしたことは
まだ言えませんが、恐らく手術をすることになると思います。』
なにーーー!!!心臓の手術??私が???
主人が到着した・・・彼の顔みたら、こらえていた涙が溢れ出した....
彼は、『大丈夫だから・・・大丈夫だから・・・と』と私の手を握った。
この日から・・・私は手術待ちの病院生活に入った。夜になると不安で怖くて
手術することを考えると泣けて泣けて・・・涙は枯れることなく出続けた・・・・・・・
Duomoを見るたびに・・・『どうしてこんなことになった??人生でなんか悪いことした?
それとも何??』こう考える度に情けなくて、悔しくて、でもどうしようもない・・・・
まさか自分がここイタリアで手術をすることになるなんて・・・・
日本の両親に連絡をした。あまりに突然のことで彼らもパニック状態
母は『沖縄や北海道なら飛んで行くけど。。。どうしたらいい??』
この日から毎朝、彼女は携帯に電話をしてくれた。
日毎に私の気持ちも落ち着き、こうなったんだから仕方ない・・・
と手術を受ける心の準備が整い始めていた時
友人から、手術を受けるなら日本に戻ったほうがいいよ!!との助言
確かにこちらの手術は大雑把な感じがするし・・・・実際に受けた人が
傷口の処理が雑であるとかを聞いたこともある。
主人『MIKIが決めればいい・・・もし日本でしたければ僕も行くよ!』と
M『そうか・・・・日本なら両親もいるし、術後も安心だな・・・』
と・・・・・考えていたのですが・・・大切なことを忘れていました。
ガ~ン!!パスポート期限が2月8日で切れている!!
これも運命・・・私はここイタリアのフィレンツェで心臓手術を受ける決心をした。
つづく・・・・